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東日本大震災から10年⑥ 福島から新潟への避難と仲間の支援

東日本大震災から10年⑥ 福島から新潟への避難と仲間の支援
2021年 3月30日

東日本大震災から10年⑥

原発事故で避難した組合員の証言 その2

福島から新潟への避難と仲間の支援

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PDF版はこちら→ニュース90大震災⑥

東日本大震災では福島第一原発の事故により遠く新潟県への避難を経験した組合員がいます。今回はその経験と教訓を語っていただきました。

―地震発生時の状況を教えてください

3月11日、私はいわき運輸区で当直業務に就いていました。経験したことのない揺れが始まり、全員が駐車場に避難しました。その後は停電のため公衆電話は不通で、安否確認も出来ませんでした。

翌日は11時頃に退勤となりました。原ノ町からいわきへ通勤していたのですが、常磐線は不通でしたので家族に迎えを頼みました。混乱の最中でしたので、家族が迎えに来たのは夜8時を過ぎました。

―家に戻ってからの状況を教えてください

3月13日からは原ノ町運輸区に出勤しました。そこで、親戚でもある、いわき運輸区の同僚が行方不明だと知りました。彼の家に行きましたが1階部分が柱だけの状態でした。彼の家は海岸線からかなり離れていたのですが、ここまで津波が来たという現実と、津波被害の大きさをこの時初めて知りました。

区長と共に市内の遺体安置所に行きました。同僚の特徴に似た遺体を数体確認しましたが見つかりませんでした。その後同僚は自宅から200mも離れたところで遺体が発見されました。

―その後、避難をすることになったそうですね

原発事故後、水が出なくなり、食料もガソリンも無くなったことから避難を決断しました。市が用意したバスで向かったのは新潟県長岡市の体育館でした。仕切りなどなく一家4人で布団を敷いての生活でした。

―避難生活はどのようなものでしたか?

ボランティアや長岡市役所の方々に大変よくして頂き感謝しています。しかし、だれもが初めての避難生活であり、様々な人間性を目にすることとなりました。避難所を運営する方々に心ないことばを発する人もいて、いたたまれなくなりました。20日ほど我慢しましたが耐えきれず、自宅に戻りました。

―会社の対応について教えてください

自宅に戻ると当時のいわき運輸区長から電話があり「いつ出てくるんだ」と言われました。私が「常磐線が不通なのにどうやって通うのですか?車を使うにしても原発事故による迂回で3時間近くかかるのに、通えというのですか?」と聞くと、返答に困っていました。数日後に通勤圏内の社宅が用意されました。

―東労組の対応について教えてください

職場復帰すると、いわき支部に各地本より支援物資が届いているので取りに来るように言われました。水やカップ麺等の支援物資を頂戴しました。なかなか手に入りにくい時期だったので大変助かりました。

―大震災から10年を迎えて思うことは何ですか?

私の場合は放射能汚染の被害が大きく、20日以上に及ぶ避難生活だけでなく、自宅の植栽の伐採や敷地の土の入替えもしました。東京電力の人災だと思います。

このようなことは二度とは起きてほしくないです。しかし「絶対に起きない」という保障はないので、今でも食料品の備蓄や水の常備をしています。また、一時避難先について家族で話す等、地震に備えています。

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